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分散内観の難しさ
釧路内観研究所
長谷川 清

分散内観の難しさ 
 「Aさん、Bさん、Cさん達は、この世に生まれて来る時、Aさんは五つの教えを、Bさんは二つの教えを、Cさんは一つの教えを与えられていました。やがて三人は成長するに従い、生活を通して早々にこの教えを思い出しました。Aさん、Bさんは、早速に教えを守り続け、コツコツ、コツコツ、実践する日々を送りました。長い年月を経た後、Aさんは、教わったこと以外にも五つのことを学び、身に着けました。Bさんも、教わったこと以外にも二つのことを学び、身につけました。ところが、Cさんは、教えを思い出しはしましたが、生活の中の出来事に翻弄され、教えに添うような努力を何もしませんでした。

 やがて、A,B,Cさん達は、寿命尽きて死の旅に出ました。旅の途中で、かつて教えを授けて下さった方が尋ねて来られました。そして、「私が与えた教えは、その後、どうなっているのかね」と、調べ始めたのです。Aさんは進み出て「教わった五つの教えは、かくかくしかじかでした、更に、こういう五つも学び取りました」と報告して、その全部を披露しました。Bさんも同様に、「二つの教えは、こういうことでした。更に、こんな二つも学び取りました」と報告して、その四つを披露しました。すると教えを授けた方は、「あなたは、私の教えに忠実な、良い人だ」と褒めた上、「僅かな教えを忠実に守り続けただけではなく、実践の中から倍のことを学び、身につけられたのだから、これからも、もっともっと教えてあげましょう」と、A,Bさんに約束されたのです。その上、「私は嬉しい、あなた方も一緒に喜んで良いことなんだよ」と言われました。

 その場に居たCさんも、調べられました。すると。Cさんは「あなたが、身に覚えのない事や忘れてしまって思い出せないことまで裁こうとする酷な人だと知っていたので、後でとやかく言われたり、責任取らされたりするのが恐ろしくて何もせず、この通り、教えだけはしっかり覚えておりました」と報告し、それを披露しました。すると、教えを授けたその方が、「なんとお前は悪いやつだ。この怠け者めが。私が身に覚えのない事まで裁こうとする酷な人だと知っていたなら、せめて、教えを誰かに伝えるくらいのことは、しても良いではないか。そうしたら、聞かされた人が、教えを学んでいたかも知れないのに」と言われたのです、そして、Cさんに与えていた教えを記憶から消し去って、それをAさんに渡してしまったのです。それだけでは済みませんでした。Cさんが泣きわめくのを承知しながら、出来の悪い者達が集まっている暗闇の中に追い出してしまいました。

 それ故に、心の平安とか幸せというのは教えを信じ、守り、実践する日々を送っている人達にもたらされるのです。教えを知っているだけでは無意味ですし、自ら蒔いた悪しき種は自ら刈り取り、知らずに犯した罪・科・汚れあらば、深く懺悔して掃き清めなければならないのです。覚えていないとか、意識的にやったんではないとか、知ってはいるけど構っちゃいられんとか、そんな馬鹿ばかしいこと、などと責任逃れをしていては、いずれ総決算する時、それなりのツケが回って来るんです、とさ。

 このように、マタイ伝二十五章十四〜三〇を、素人なりに学ばせていただきました、

 Cさんの生き方は、今の私達にそっくりだと思いませんか。教えを穴の中に埋めたように、私たちの内観を埋めっ放しではないでしょうか。それだけではありません。A,B,Cさんが教えを授かって生まれたように、私たちは生まれながらにして、内観するように、内観できるような素地を授かっているのではないでしょうか。と、言いますのも、子供の頃の方が今より素直に反省していましたし、悪いことをした時にはストレートに両親が痛んでいたように思うからです。Aさん、Bさんのように、人生観を早く目覚め、内観を体験し、実践の毎日を重ねることが肝要なんです。ところが、Cさんのように功利的になってしまうと、損得、苦楽、福禍、お金儲け、地位名声、快楽などに血眼になってしまいます。内観を知ってはいるけれども、心の向き処や生活態度が教えや内観から大きく掛け離れます。生来持ち合わせていた優しさや思いやりなどまでもが姿を見せなくなります、愚痴っぽくなったり、人を蹴落としたり、嘘をついてまでも身の保全を計ったり心配不安が増えたり、着飾ることが生甲斐になったり、満足を知らない生き方になってしまうのです。

 イエス様はこうも言われています。「私に従って来なさい。世俗に溺れてしまった者のことは、死んだも同然のような生き方をしている他の者に任せない」、「アーメン、アーメンと唱えるだけでは平安になれませんよ。幸せも感じませんよ。救われませんよ。教えを生活の中で生かしなさい、行いなさい。そうしたら、平安になり、幸せ一杯になります」、「教えの少しは守ったではありませんか。と言われても。あなたがたを私は知らない、教えに背いた者どもよ、あっちへ行ってしまえ、シッシッ!」と。

 厳しいですね。普段、自分勝手な価値観で自分勝手に暮していながら、「いざ、大変だ!」となれば「満更。私も悪人じゃあございません。神様、仏様、助けて下さい」と手を合わせます。しかし、イエス様は「教えを実践しなかったんだから、あっちへ行ってしまえ」と拒んでいらっしゃるのです。私たちが、得手勝手な子供や身内、知人などから頼み事をされても、「今更何さ」と言って、お断りするのと同じことです。

 内観は「心の貧しい人は幸いである。天国は彼等のものである」と書かれている、その心の貧しさに気づくためにあるんだと思います。先ほど、生まれながらにしない感できる素地をいただいていると申しましたが、それが「因」となり、この全道大会に参加されたことが「縁」となります。これで「因縁」は揃いましたから、あとは「結果」が出るだけです。実際にお座りしていただくと、事が成就する手筈になっているんです。
余計なお世話ですが、間違っても、Cさんみたいな生き方はしないで欲しいと願うばかりです。





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